寝台特急を降りた弘前駅から今年の夏旅はスタートします。
第一日目の計画は金木町の太宰治の斜陽館。
当初の計画では、弘前駅から奥羽線に乗って川部駅で下車、五能線に乗り継いで五所川原へ出る予定でした。でも、1時間も遅れちゃったし、予定の奥羽線には乗れないなと思い、急遽のメニューの変更も考えました。しかし、ここでコースを変えるのもなんだから、とりあえず予定通りに進んでみようということになりました。
ゆっくりとモーニングコーヒーを飲み、ホームへ。
10時2分発の奥羽線は乗れなくなってしまったので、11時25分発の鰺ヶ沢行きに乗ることにしました。ホームに待つ列車はアイボリーのボディにブルーのラインを巻くキハ40。ここでラッキーなことに気付きました。そう、この列車は五能線だったのです。
弘前からは奥羽線、それしか頭になかった私は次の列車では川部駅で五能線に乗り継ぎができない、そう思い込んでいたのでした。しかし実際には五能線の始発は弘前駅。もともと川部駅で乗り継ぐはずの五能線に、弘前駅から乗れたのでした。
時刻表を見ているだけではわからない様々な仕組みが実はあるんだなぁと、今更ながらに思ったことでした。
目的地の五所川原までは50分弱。今にも雨の降りそうな車窓を眺めたり、夜行列車の疲れからうとうとしたりしながら、五所川原駅に到着しました。
太宰治の生家のある金木町に行くには、五所川原から出る津軽鉄道に乗り換えます。
五能線の五所川原駅に対して、津軽鉄道は津軽五所川原駅。ホームは跨線橋で結ばれていますが、津軽五所川原駅の駅舎は別にあります。
乗り換え時間が30分ほどあるので津軽五所川原駅の駅舎の探索に。
コンクリート造りの駅舎の一番高い所に掲げられているこのマークは、津軽鉄道の社章です。
駅舎の出札口の上に掲げられた黒板型の駅名標に、歴史の息吹を感じます。
列車の出発時刻も近付いてきたので、ホームへ。
やがて入線してきたオレンジ色のキハは、「走れメロス」のヘッドマークを掲げていました。
ストーブ列車で有名な列車の中は、今の季節は風鈴列車となります。列車の天井から吊るされた焼き物の風鈴が涼しげな音楽を奏でます。
津軽五所川原駅から約20分、列車は今日の目的地、太宰治の故郷、金木駅に到着しました。
堂々とした楷書体の駅名標の横に、さりげなくタブレットケースがかけられていました。
金木駅に併設された観光案内所でいくつかのパンフレットをもらい、太宰治の足跡をたどることに。
まず最初に到着したのは駅から歩くと斜陽館の手前に位置する「太宰治疎開の家」。
通りから見ると近代的な造りの建物も、裏に回ると下見板張りの美しい壁に覆われた木造建築です。こちら側が玄関です。
終戦直前の昭和20年7月、太宰が東京の戦禍から逃れ妻子とともに身を寄せたのがここ、斜陽館の離れだった通称「新座敷」です。終戦を迎え翌11月まで1年4ヶ月の間に「苦悩の年鑑」など20数作品をここで執筆しています。
表通りから中に入ると受付があって、館内を案内してくださる案内人の方がおられます。案内人のお話を聞きながら、中の様子を見せてもらいました。
母屋からの渡り廊下を渡ってすぐのところの和室です。手前の床の間のある10畳間の部屋は短編「故郷」の中で太宰が床に伏した母と対面した部屋です。
その奥の6畳間が太宰が仕事部屋として使用していた部屋です。火鉢の脇の座卓には太宰の原稿が置かれていました。
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新座敷の中ほど、玄関の脇にあたる位置には洋間があります。
ピアノのある近代的な洋間には、出窓に造りつけでしょうか、ソファーも置かれています。左側の飾棚の上の写真立てには在りし日の太宰の姿がありました。
短編「故郷」の中で、病に伏す母の傍らから離れた太宰が涙をこらえたのがこの部屋です。
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その他寝室などを見せてもらい、太宰の息遣いを感じる「新座敷」を後にしました。
離れから歩いて数分、母屋の「斜陽館」に到着しました。
明治の大地主、太宰の父、津島源右衛門が建てた入母屋造りの立派な建物は、明治40年6月の落成です。米蔵にいたるまで日本三大美林のヒバを使った建物は、1階11室、2階8室の大豪邸です。
この大豪邸を太宰は「苦悩の年鑑」の中で、「この父はひどく大きな家を建てたものだ。風情もなにもないただ大きいのである」と書いています。
ただ大きい大豪邸も、戦後の農地改革で没落した島津家が手放すことになります。大豪邸は昭和25年から旅館「斜陽館」となり営業を続けていましたが、平成8年に旧金木町が買い取ることとなって、46年の歴史に幕を下ろすこととなりました。
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斜陽館を斜めに見てみます。正面の立派さだけではなく、奥行きの広さも垣間見えます。
1階の切り妻と玄関、2階の入母屋の屋根の重なりが美しいなと思います。
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2階、入母屋屋根の意匠と鬼瓦です。
雪深い東北地方の屋根はトタン製で、したがって鬼瓦といっても木製です。妻部分に細かく刻まれた意匠は繊細で美しいものです。
建物の外側はレンガ造りの塀で覆われています。
赤レンガの積み重ねは美しく、扉の周りや門柱部分、上部の屋根型の部分など、ところどころに見える意匠が美しいものです。
斜陽館のほぼ正面に位置する観光物産館マディニーに立ち寄って、軽く食事。
写真は「太宰らうめん」。煮干しだしのしょうゆラーメンの上にはたっぷりのネギと津軽近海の新若芽、それに金木町産根曲がり竹の子(姫竹の子)。太宰の好物、新若芽と根曲がり竹の子たっぷりの若竹汁をヒントにした郷土の創作料理だそうです。
あっさりとしたしょうゆラーメンは、そこそこのお味でした。
青森に行くなら太宰治の斜陽館かなと漠然と思っていた私は、太宰の大ファンというわけではなく、代表的な作品はいくつか読んではいるものの、全てを読破しているわけではありません。ただ、古い建物に魅かれて、斜陽館という建物を見てみたいと思っていたのです。
しかし、かなり太宰作品を読み込んでいる2人の友のうちの一人は、ひとつひとつの展示物を食い入るようにみつめ、太宰治の世界に浸っているようでした。
趣のある古い建物を訪ね、津軽三味線の演奏も聴いて約2時間40分。3人3様の満足感を持って太宰治の生家を後にしました。
予定の列車に間に合うようにゆっくりと金木駅に戻り、津軽五所川原行きの列車を待ちました。窓口で見つけた絵葉書と記念切符を購入して、本日の宿泊地、浅虫温泉へ向かいます。
※斜陽館や新座敷についての説明は、パンフレットを参考にしています。
2010年7月31日(土)