《真幸駅編》
  
《画像クリックで大きくなります》
矢岳駅から列車に乗って、お隣の真幸駅に到着しました。この列車もまた、いさぶろう号でした。
矢岳駅から真幸駅の間は20分。日本三大車窓といわれる絶景が楽しめる区間です。しかし、それまですっきりと晴れ渡っていた夏空は、あっというまに曇り、雨模様となったのでした。
観光列車のいさぶろう号から降りてきた乗客たちは、雨模様の中、大慌てで撮影をしたり、名所に触れたりして、列車はまもなく出てゆきました。
雨模様のホームに立つ駅名標です。真幸駅のトレードマークは温泉のようです。近くに温泉施設があるのでしょうか。
ホーム側から駅舎を見てみましょう。
島式ホームから駅舎までは線路を踏切で渡った後、少し距離があります。駅舎へ続く通路の脇は、玉砂利が敷かれ、箒目がつけられて、日本庭園の趣を持っています。
建物は縦羽目板張りと漆喰の壁を持つ純然たる木造駅舎です。灰色の屋根瓦に、赤いトタンの付け庇がアクセントになっています。
宮崎県えびの市に位置する真幸(まさき)駅は、1911(明治44)年に鹿児島本線として開業しており、大畑駅、矢岳駅などと同様に鹿児島本線の海岸ルート全通に伴って肥薩線所属となっています。肥薩線の中で唯一宮崎県に位置する真幸駅は、宮崎県内で最初にできた駅でもあります。
正面から駅舎を見てみましょう。大畑、矢岳と同じように、縦羽目板張りの腰壁を持ち、木枠のドアと木枠の窓を持ちます。庇との間の白い漆喰の壁には、黒地に白文字の見慣れた駅名板が掲げられています。庇の赤いトタン屋根が、他の二つの駅舎よりも若干若々しく見えます。
駅舎の前には国道が通っていて、時々車の往来がありますが、それ以外は人通りもなく、閑散としています。
大粒の雨が、赤いトタン屋根をぴかぴかにしています。
駅舎を吉松方面側から斜めに見てみましょう。
屋根の妻部分の下見板張りや木枠の窓など、木造の美しい姿を留めています。
赤いトタンの庇の下には、小学校の備品なのでしょうか、学童用の小さないすや机が無造作に積まれているのが、残念な風景ではあります。また、駅舎の中の待合室にも、いすや机が積まれていて、興ざめな感じがしました。
しかし、地元の生活に密着した駅ならば、物置代わりにされてしまうのもそれはそれでいいのかも知れません。
ホームには駅名標と並んで、「幸せの鐘」が設置されています。職員の方々が鉄路の安全を願って鳴らしたのが始まりだそうです。
鐘を鳴らす人が幸せと感じる度合いに応じての回数を鳴らすのがよいとされているそうです。
真幸駅も大畑駅同様に、スイッチバックの駅です。したがって、吉松方面にはまっすぐに線路は伸びず、行き止まりになっています。
ホームはかつてはもっと長かったのですが、1972(昭和42)年の大雨により発生した土石流によって、駅構内と周辺の集落が飲み込まれてしまい、現在の長さになっているそうです。ホーム吉松寄りにあるこの岩は、そのときの自然からの置き土産だそうです。
駅舎の周辺に人家がなく無人地帯となっているのは、このときの被害によるものだそうです。
吉松方面側から駅全体を眺めてみましょう。
決して大きな駅ではないのですが、スイッチバックの構造上、優等列車も必ず停車しなくてはならないため、ホームは島式1面2線の長く立派なものです。深い緑の山々に囲まれた山間の小さな駅は、山特有の天気の変わりやすさで曇天に覆われています。
真幸駅、とても幸先のよい名前ですが、その名前とは裏腹の悲しい歴史を持つ駅です。付近の過疎化に伴い寂れてゆく駅の、たまたまのたった一回の姿ですが、悲哀のようなものを感じてしまったりもしたのでした。
51分の時を過ごし、真幸駅を後にします。三日目の宿も人吉にあるので、先には進まず、上り列車に乗って人吉に戻ります。真幸駅から人吉駅までは1時間弱あるので、観光列車しんぺい号の指定券を取りました。肥薩線の観光列車は、上りを「しんぺい号」、下りを「いさぶろう号」と、同じ車両で名前を変えて運行しているのです。ときの逓信大臣の山縣伊三郎と鉄道院総裁の後藤新平から名前をもらっています。真幸駅と矢岳駅との間にある矢岳第一トンネルの吉松側の入口には後藤の「引重致遠」、矢岳側の入口には山縣の「天険若夷」との石額が掲げられているのですが、これは難航を極めた工事に対しての労を労って書かれたものだそうです。列車の名前の由来はそこからきているのです。
しんぺい号の車窓からは日本三大車窓のひとつに数えられる、霧島連山を望む絶景が見えるのですが、あいにくの雨模様でこんな風にしか見えませんでした。
しんぺい号は約1時間、終点の人吉駅に近づいてきました。
人吉駅近く、鉄橋からみえる球磨川の流れです。
幸先のよい駅名、真幸駅の切符は人気があり、記念切符にもなっています。もちろん私も一枚購入しました。
いかにも幸せそうな名前とは裏腹に、真幸駅とその前後の線路には悲しい歴史も残っています。
今回は折り返してしまったので行かなかったのですが、真幸駅とその先の吉松駅との間にある第二山の神トンネル内でも悲惨な事故が起きています。1945年8月、たくさんの復員兵で鮨詰め状態の列車がトンネル内で立ち往生してしまい、煙に巻かれた乗客が列車を降りて出口を目指したところに、列車が後退してきてたくさんの人が轢死してしまったという事故です。
その他にも真幸、矢岳間のトンネル建設中の事故や、土石流による駅、周辺集落の被害など、悲しい過去を持つ真幸駅です。
人影のない静寂に包まれた木造駅舎には、それらの悲しみを跳ね返す、強い幸があるのかもしれません。
一番列車で到着した大畑駅から、矢岳駅、真幸駅と、ゆっくりと三つの駅を見てきました。前日の川線とは違って、路線全体が観光地化しているせいか、列車の中はにぎやかでした。でも、ホームに降り、せわしなく駅周辺を観光する人たちを見送ってしまうと、そこにははてしない静寂に包まれた空間が現れます。
確かに、観光目的のために人為的に古い木造駅舎を残そうとしていることは見て取ることができます。しかし、実際に駅を管理しているのは旅行会社でも観光客でもなく、地元の方々です。生活の片隅にひっそりと佇むこの古い駅への愛情が、自然と駅舎や周りの木々の手入れに向かわせるのでしょうか。
厳しい急勾配を制するため、人々は苦労を重ねてきたのでしょう。それがループ線であり、スイッチバックであり、山を貫かれたトンネルです。
私たち観光客を楽しませるこれらの珍しい風景は、簡単にできあがったのではなく、様々な汗と涙の上にあること、覚えておきたいと思います。
2007年8月8日(水)