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ムーンライトながらを大垣で降り、各駅停車と新快速を乗り継いで、8時42分、京都駅に到着しました。
初めての関西圏ではじめての通勤ラッシュ、内心ドキドキだったけれども、どさくさにまぎれていつのまにか無事通過したようです。
米原から乗った新快速を降りて、珍しさにしばらくホームをうろうろしたあと、いけない、山陰本線に乗換だと我に返り、大阪寄りの跨線橋を渡り、33番線、山陰本線のホームへ向かいます。
山陰本線のホームに停車していたのは、ついこの間東海道線の東京口から引退し、お目にかかることのなくなった、みかん電車でした。
「やったぁ」と心を躍らせて先頭車両を覗き込むと、あれ?なんだかちょっと違う感じ。
東京口のみかん電車は窓の周りがグレーのゴム製でしたが、京都のみかん電車は、幅広のアルミの枠で覆われています。また、ライトの横のまるいホーンも、東京口のみかん電車とはちょっと違う感じがします。
この形が山陰本線の厳しい気象条件に合わされたものだそうで、「鉄仮面」と呼ばれているそうです。
山陰本線園部行きは、こんなふうにみかん電車と、違った色の列車を連結させていました。
こちらはみかん電車と同じ113系(多分)ですが、カフェオレ色と呼ばれているそうです。
山陰本線のみかん電車は、京都駅を出て、園部駅を目指します。
丹波口(たんばぐち) → 二条(にじょう) → 円町(えんまち) → 花園(はなぞの) → 太秦(うずまさ) → 嵯峨嵐山(さがあらしやま) と進み、京都の町並みは徐々に山の中へと入って行きます。
嵯峨嵐山駅でトロッコ電車を見送った後、ボックスシートの車窓の景色は突然渓谷に変わりました。
流れているのは保津川です。しばらく列車右側に見えていた川は、全国的にも珍しい川に架かった橋の上の駅、保津峡(ほづきょう)駅で交差します。
画像右端にかすかにみえるのは、山陰本線の旧ルート、現トロッコ電車の線路でしょうか。
列車は更に、馬堀(うまほり) → 亀岡(かめおか) → 並河(なみかわ) → 千代川(ちよかわ) → 八木(やぎ) → 吉冨(よしとみ) と進んで、終点の園部(そのべ)駅に到着しました。
ここで福知山行きに乗り換えます。
列車は、みかん電車と同じ113系のカフェオレ色です。
園部駅で乗り換えた列車には約1時間、13駅ほど乗っていたようですが、実はあんまりその間の記憶がありません。多分、夜行列車の疲れから、ぐっすり眠っていたのでしょう。
そんな状態でカフェオレ電車は福知山(ふくちやま)駅に到着。ここでまた乗り換えです。
福知山駅に待っていたのは、こんなヘンな形の電車でした。しかし、これも、先頭車両が簡易化改造されているものの、れっきとした113系列車です。旧型国鉄車両を連想させる独特なスタイルが、一部鉄道ファンの間にはいろいろな意味で人気なのだそうです。
ヘンな形の113系列車は、約1時間20分、11個の駅を通過して、城崎温泉(きのさきおんせん)駅に到着しました。しかし、ヘンな形の列車の沿線風景もまったく記憶にありません。
大垣、米原、京都、園部、福知山と、ほとんど乗り換えの時間しかなかったその日、ここ城崎温泉駅で初めて30分以上の待ち合わせ時間がとれました。ちょっと外の空気を吸ってみようかと改札を出てみることにしました。
山陰地方でも指折りの温泉街として知られる城崎温泉駅は、その名にふさわしく重々しく立派な駅舎でした。
外湯めぐりが主体の温泉街は歴史も古く、「城の崎にて」を書いた志賀直哉など、たくさんの文豪たちにも愛された街です。
駅舎に向かって左側にある小さな建物は、七つの外湯のひとつ、一の湯前にある飲湯場で、慢性消化器病と慢性便秘に効能があるそうです。
外の新鮮な空気を吸って、気分をリフレッシュさせたあと、また、改札をくぐってホームに入ります。
城崎温泉は有数な温泉街であるだけに、観光客を乗せた特急列車がバンバンやってきます。
右側は京都行きの「特急きのさき」。183系の国鉄色電車です。
左側は、鳥取方面行きの「特急はまかぜ」。キハ181系の特急型気動車です。
電気の力でスマートに走る「きのさき」と、煙を吐きながらごとごと走る精悍な感じの「はまかぜ」。どちらもそれぞれに良い味出してるなと思います。
さて、いよいよ本日のメインイベント目指して次の列車に乗り込みます。山陰地方の非電化地区などで広く活躍している、キハ40系列車です。
関東地方では烏山線で活躍しているキハと同じ型です。
一見赤い気動車のように見えますが、車両横の窓と窓の間は「松葉色」と呼ばれる緑色に塗られています。この地方の名産、松葉蟹をイメージしているのかなと思いました。
(写真は豊岡行き上り列車)
2両編成の列車の中は、結構混んでいました。しかし、途中、香住(かすみ)駅に到着したところで、お客さんが降り、ボックスシートが空いたので、そちらに移りました。 
ボックスシートの反対側に座ったおじいさんが、「餘部見に行くの?」と声をかけてきます。地元の方らしく、最近の観光客での混み具合や、景色のすばらしさなど、話してくださいます。
しばらくして到着した鎧(よろい)駅を発車すると、まもなく列車はトンネルに入ります。やがてトンネルを出て視界が開けたとき、おじいさんが、「ほら、見てごらん」と視線を窓の下に投げかけました。しばらくは視線を鉄の柵が遮りますが、やがて柵は途切れ、眼下には深い青が広がりました。
やがて足の下からのゴーゴーという音が消えたかと思ったら、列車は餘部(あまるべ)駅に到着しました。
おじいさんとの会話を楽しみながら、感動の嵐のその一瞬が、はるばる東京から見に来た、餘部鉄橋の上だったと気付いたのは、駅に到着した後でした
少しの間、時を共にしたおじいさんと分かれて、餘部(あまるべ)駅で降ります。
深い緑の中に、駅舎はなくホームだけの小さな駅なのに、あの芸術的な鉄橋の美しい姿を一目見ようと、たくさんの観光客の方たちが降りました。
降りたホームを、鎧方面に歩いて行きます。
ホームの端までやってくると、驚いた事にそこはもう餘部鉄橋です。
眼下に海を見、はるかかなたにトンネルを見ます。そしてそこに繋がる線路を見たとき、あぁ、さっきの感動の嵐はこの餘部鉄橋の上だったんだと気付きました。
鎧方面にホームを出て、右に折れると、展望台になっていて、絶好の撮影ポイントになっています。まずはそこに行って、餘部鉄橋の美しさを記録しようと思います。
しばらく待っていると、列車がやって来ました。餘部駅を出て、鉄橋に差し掛かったのは、あまるべロマン号。架け替えを控えた餘部鉄橋からの景色を堪能して欲しいと、JR西日本が企画した、企画列車です。列車は、観光客に配慮して、ゆっくりと橋の上を渡って行きました。
餘部鉄橋は1912(明治45)年3月に開通した、長さ310.59m、高さ41.45m、11基の橋脚、23連の鉄桁を持つトレッスル橋です。100年以上も前の時代、その技術には驚嘆ですが、技術以上の多くの苦労があったことと思います。それはそれを造った当時だけではなく、厳しい気象環境の中でそれを守り続ける現在も尚。
過去には回送列車が風にあおられて転落、たくさんの尊い命が奪われたという悲しい事件もあり、事故現場にはその慰霊碑が建立され、毎年そこで法要が行われているそうです。
美しい姿と悲しい事実を呑み込んで、2007年春には架け替え工事が始まります。
餘部鉄橋の美しい姿を堪能し、列車に乗ります。本当は赤いキハの姿を捉えたかったのですが、時間の都合でうまくいきませんでした。
時間の都合、それは何かというと、餘部駅からひとつ戻ってお隣の鎧(よろい)駅に立ち寄ることでした。
宮本輝氏の「海岸列車」の舞台にもなっている鎧駅。本を読んだときから絶対に訪れたいと思っていた駅です。
ホームに立つ駅名標と、その後ろの民家とが、海岸列車が描く漁師町の様子を思い出させます。
鎧駅の駅舎自体はとても簡素なものですが、ホームは対向式の2面2線を持ち、交換も可能な大きな駅です。
今、餘部駅から乗ってきた上り豊岡行きと、豊岡方面からやってきた下り浜坂行きのキハがすれ違いました。
鎧のホームからは、日本海の入江を見下ろすことができます。
海岸列車に描かれている小さな漁港も、ここなんだなと思いました。
午後3時を回り、日が暮れかけた日本海の海は、更に一層藍色の深さが増しました。
次の下り列車が来るまで1時間半近く、鎧のホームで待ちます。
午後4時を回り5時近くなった頃、山側から海岸側のホームを撮ってみました。
撮った写真を後からみて気付きます。2001年・冬の青春18きっぷのポスターのアングルに似てるではないか、と。もうちょっと暗くなって、地下連絡通路の出口に灯が灯れば、ね。
海岸に向かって設置されたベンチは、厳しい風雪に耐えられなかったのか、背が全部折れてしまっていますが、「ここに座って海を見てごらん」と優しくささやかれているような気がしてきます。
そうやってのんびりと約1時間半列車を待って、やってきた16時51分下り浜坂行きの列車に乗りました。
浜坂(はまさか)駅で乗り換えた列車に揺られて約50分、今日の終着点、鳥取駅に到着しました。
鳥取駅は鳥取県の中心駅らしく、列車の往き来はそこそこ多い気がします。鳥取駅を発着する山陰本線、因美線とも非電化であるらしく、どの列車もゴトゴトと音をたて、にぎやかに行き交っていました。
2006年8月21日(月)