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今年のゴールデンウィークはどこに行こう、考えた結果、故郷の近くでありながらまだ乗った事のない、御殿場線に乗ることにしました。
東海道線で国府津駅に出てそこから御殿場線に乗り換えます。
御殿場線はみかん色の115系、そう思って胸を膨らませていたのですが、国府津駅で待っていたのは、こんな見慣れない電車でした。
隣に止まるみかん色の東海道線が、ピカピカの窓に映ります。
国府津駅を出ると、下曽我 → 上大井 → 相模金子 → 松田 → 東山北 → 山北 と進んで行きます。
曽我梅林で有名な下曽我を抜け、大井町、松田町と進んで行くにつれ、周りは山に囲まれた静かな田園地帯になってゆきます。
これは上大井付近の車窓の風景です。
山北駅でいったん降りようと思います。
駅舎はどっしりとした灰色の瓦葺で、重々しい雰囲気があります。
駅前はそれほどのにぎやかさはないけれど、どことなく歴史を感じさせる駅舎です。
それもそのはず、 明治から昭和の初めにかけての山北は、鉄道の町として栄えていました。
いまでこそ1時間に1本程度の単線ローカル路線ですが、かつては東海道本線として、日本の鉄道網を支えていたのです。
ローカル線にしては重々しい立派な駅舎と広いホーム、多くの引込み線は、そんな過去を背負っています。
ところで山北駅で降りるとき、清算窓口でなるほどな体験をしました。
東海道線から乗り継いできたので、Suicaを出して清算しようとしたのですが、窓口の職員の方は「ここでは使えない」とおっしゃいます。国府津まではJR東日本、しかしここは同じ神奈川県内でありながら、もうJR東海なのです。
駅に掲げられた駅名の横に、JR東海のコーポレートカラーのオレンジ色がひときわ映えています。
あ、そういえば・・・
これで国府津駅で感じた違和感も解消しました。国府津から乗ってきたのは JR東海の近郊型車輌、313系電車だったというわけです。
駅舎と道路を挟んだ向こう側に、こんな建物がありました。
看板には「観光案内」とあり、サイクリング用の自転車を貸してくれたりするようです。
現代風の建物の中で、そこだけ時間が止まってしまったかのようでした。
これといってあてはなかったけれど、お隣の谷峨駅を目指して歩いてみようかな、とおもいました。
山北駅を出ると、その周りの道路や住宅はだんだんと高くなり、線路はがけの下を走るような形になります。
緑に覆われたがけの上は桜の木です。満開の桜も終わり、新緑の葉桜となって、線路の上にトンネルを作っていました。
列車
左右の道路から線路の上に渡された橋の上で、しばらく線路を眺めながら森林浴をしていました。
すると後ろから電車の走る音が聞こえてきました。
緑のトンネルを走り抜けたのは、小田急線の新宿駅から新松田を経由して御殿場線に入り、沼津まで直通運転をする、「あさぎり」です。
沼津行きの「あさぎり」を見送った後も、どこかで流れる小川のせせらぎの音や、近隣で遊ぶ子どもたちの歓声を遠くに聞きながら、しばらく橋の上に佇んでいました。
時間はゆっくりと流れ、やがて御殿場方面から313系列車がやってきました。
橋の上で同じように写真を撮っていた人と少しだけ会話を交わし、谷峨に向かって歩き始めました。
がけの上の道路には行かず、線路沿いをしばらく歩いてみました。しかし、その先は鉄橋となっていて、完全に行く手を阻まれてしまいました。あきらめて道路に戻ろうとしたとき、後ろから下り沼津行きの列車がやってきました。
通り過ぎたのは、恋焦がれたみかん色の115系電車でした。
線路は山間を縫うように走り、やがてトンネルに吸い込まれて行きました。線路沿いを歩く術をなくし、車道を大回りします。車道もトンネルに入り、それを抜けると眼下に酒匂川が現れます。川は広い河原をうねるように流れ、歩くほど流れは急になってゆきます。
トンネルに消えてしばらく見えなかった線路は、トンネルから唐突に現れ、車道を歩くがけの下を見え隠れしながらついてきます。
車道から川の方に少し入って行くと、川に架かる橋が現れ、その向こうに鉄橋が見えます。
鉄橋は、「第一酒匂川橋梁」。その上を2輌編成の313系電車が通って行きました。
橋を渡るとまもなくに「平山踏切」と書かれた踏切に出ます。またしばらく線路沿いを歩きますが、またしても行く手を酒匂川に阻まれてしまいました。
しかたなく、鉄橋の先の車道まで戻ることにしました。
車道へ戻るその傍らには、きれいな緑の茶畑が並んでいます。
ここは知る人ぞ知る、「足柄茶」の産地なのです。
そういえば八十八夜(5月3日〜5日頃にかけて)ももうすぐです。
今でこそひっそりとした山間を走る路線ですが、その昔は東海道本線の一部として日本の大動脈の一翼を担う大切な路線でした。しかし、昭和9年に丹那トンネルが完成するや、熱海経由が東海道本線となって主役の座を下ろされ、「御殿場線」と改称されました。
更に第二次大戦中の昭和19年に、鉄材供出のためにレールを奪われ、複線から単線に。
写真は酒匂川に架かる酒匂第二橋梁ですが、単線の線路には余りある橋脚の広さはかつて複線だった名残です。右側のスペースにはかつて線路が敷設されていた様子をうかがい知ることができます。
ここにもまた、「栄枯盛衰」の歴史が刻まれています。
山北駅を出て、歩いては立ち止まりしながら約3時間は歩いたでしょうか。そろそろ足取りも重くなってきた頃、次の駅に到着しました。
山北駅のお隣、「谷峨(やが)」駅です。
西丹沢・中川温泉・丹沢湖への玄関口となるこの駅は、登山客も多く訪れます。
谷峨駅は、1947(昭和22)年に地元の要望により谷峨信号所に開設されました。地元の人々が資材や労働力を提供するという手作りの駅だったそうです。しかし、住民に愛着のある手作りの駅舎は、2000(平成12)年3月には、こんなモダンな駅舎に生まれ変わりました。
谷峨駅から下り沼津行きの列車に乗ることにします。
次の列車がくるまで約30分、無人駅の改札を出たり入ったりしながらあちこち見てまわりました。
下りホームから見た上りホームです。
緑をバックにした待合室はこざっぱりとし、木肌のベンチが優しげです。
谷峨を出た列車は、駿河小山、足柄、御殿場、裾野、など、10個の駅に停まりながら、終点の沼津駅に到着しました。
沿線は富士山が最も美しく見える路線として有名ですが、空は晴れているのにかすんだ感じがして、残念ながらよく見えませんでした。やはり真冬の澄んだ空気にはかなわないようです。
写真は、沼津駅に到着した、313系列車です。
沼津駅は1889(明治22)年に開設されています。急勾配を克服するための機関車の入れ替えや後押し機関車のとりつけを行ったのは沼津機関区です。昭和のはじめ頃、超特急「燕」を動かし管理したのも沼津機関区です。
当時の駅舎は空襲で消失し、その後改築されましたが、当時の歴史は、C58型蒸気機関車の動輪とともに、駅前広場のモニュメントに深く刻まれています。
改築された駅舎は近代的ですが、ホームはその当時の面影を残しています。
長いホームと黒光りした天上。そしてホーム中央の洗面台。
超特急「燕」から降り立った人々が、身なりを整えるために鏡を覗き込む姿が思い浮かびます。
駅舎を出て、しばらく駅の周辺をぶらぶらしたあと、そろそろ帰路につこうかとホームに戻ってきました。
帰りは御殿場線ではなく、熱海廻りで帰ろうかと東海道線のホームに立つと、お隣、御殿場線のホームにみかん色の115系列車が一息ついているところでした。
上り熱海行きの東海道線に乗って帰路につきます。
いくつかのトンネルをくぐり、三島、函南と二つの駅を過ぎると、あっという間に終点熱海駅です。
函南を過ぎ、新丹那トンネルを抜けると、いよいよ車窓に海が見え始めます。
窓の下に海を見ながら、列車は熱海駅に到着しました。
同じ東海道本線ですが、沼津から熱海まではJR東海、熱海から先はJR東日本のため、ここで東京行きに乗り換えです。
ホームを降りるとお隣のホームにこんな列車が停まっていました。
白とブルーの車体には「izukyu」のロゴが見えます。伊豆半島を下田に向かう、伊豆急行、でしょうか。
沼津から乗ってきたJR東海の熱海行きは、方向幕を「島田」に変えて準備中です。
残念ながら御殿場線のみかん電車は目で見ただけで乗る事はできなかったけれど、東海道線は念願のみかん電車に乗ることができました。
JR東海のみかん電車の車内は、JR東日本のそれよりも、まだまだ主役の誇りを持ったものでした。
ひとつの鉄道にも、栄枯盛衰の歴史があり、たとえ主役の座を下ろされようとも、主役であったころのプライドを持ち続けているものだと感じました。
2005年4月30日(土)